マラソン後半の失速はなぜ起こるのか
市民ランナーが直面する課題
フルマラソンにおいて、30km以降にペースが落ちる「30kmの壁」は多くの市民ランナーが経験する現象である。練習では一定ペースを維持できていても、本番では後半に失速する。この背景には、単に体力不足やスタミナ切れといった抽象的な理由だけでなく、ランニングエコノミー(Running Economy:RE)の低下や、筋力・神経系の疲労が複合的に影響している可能性が指摘されている。
心拍数は変わらないのにペースが落ちる理由
レース中の心拍数は比較的安定していても、ペースが維持できなくなる現象がある。これは「酸素摂取量やエネルギー効率が徐々に低下する」という見えない疲労の進行が原因である。この現象を理解する鍵となるのが、ランニングエコノミーと耐久性という2つの概念である。
ランニングエコノミーと耐久性の基礎知識
ランニングエコノミー(Running Economy)とは
ランニングエコノミーとは、一定速度で走る際にどれだけ少ない酸素量で走行できるかを示す指標である。単位は通常「ml/kg/km」で表され、数値が低いほどエネルギー効率が良いとされる。例えば、同じスピードで走っていても、ランニングエコノミーが高いランナーは酸素消費が少なく、疲労の蓄積が遅い。そのため、マラソン記録との相関も高いことが知られている。
耐久性(Durability)の概念
耐久性は、ランニングエコノミーを長時間にわたって維持できる能力を指す。多くのランナーでは、走行時間が長くなるにつれてエコノミーが悪化し、酸素消費量が増加する。本研究では、この耐久性の変化を90分間の連続走行で評価し、その改善効果を検証した。
疲労時パフォーマンスという新たな指標
Time to Exhaustion(TTE)の意義
疲労状態でのパフォーマンスを測定するために用いられる指標が「Time to Exhaustion(TTE)」である。これは、あらかじめ設定した高強度(ここでは95%V̇O₂max相当)で限界まで走り続ける時間を計測する方法だ。マラソン後半のような疲労環境下でのパフォーマンスを客観的に評価できる点が特徴である。
レース後半の失速再現としての価値
市民ランナーが経験する後半の失速を科学的に再現するには、単なるタイムトライアルでは不十分である。疲労を意図的に蓄積した状態での高強度走行を測ることで、実戦に近いデータを得られる。この研究はその点で実用性が高い。
研究概要:10週間の筋力トレーニング介入
対象ランナーと条件
本研究は、V̇O₂max平均58.6 ml/kg/min、10kmタイム39分程度のwell-trainedな男性ランナー28名を対象に行われた。彼らは週に一定のランニングトレーニングを継続しており、競技レベルでは市民ランナーの上位層に近い。
トレーニングプログラム
被験者は2群に分けられた。対照群は従来通りのランニングトレーニングのみを継続し、介入群(E+S群)はこれに加えて週2回の筋力トレーニングを10週間行った。筋力トレーニングは最大筋力向上とプライオメトリクス(跳躍系動作)を組み合わせた内容であり、スクワットやデッドリフト、ジャンプ系ドリルが含まれた。
実験プロトコル
実験では以下の手順でデータを取得した。
- 乳酸閾値1と2の間に設定した速度(平均13.1 km/h)で90分間走行
- 15分ごとに酸素コスト(ランニングエコノミー)を測定
- 90分走終了後、95%V̇O₂max(16.1 km/h)で限界まで走り続けるTTEを測定
この一連の評価をトレーニング前後に実施し、変化を比較した。
研究結果:ランニングエコノミー耐久性と疲労時パフォーマンスの改善
ランニングエコノミーの変化
介入群(E+S)は90分走後のランニングエコノミーが平均2.1%改善したのに対し、対照群(E)は0.6%悪化した。この差は統計的に有意であり、筋力トレーニングが長時間走行後もエネルギー効率を維持する効果を持つことが示された。
疲労時パフォーマンス(TTE)の変化
TTEでは、E+S群が35%延長し、E群は8%短縮した。つまり、筋力トレーニングを取り入れたランナーは、疲労が蓄積した状態でも高強度を維持できる能力が向上したといえる。
結果が示す意味:筋力トレーニングがもたらす適応
神経筋適応と腱剛性の向上
筋力トレーニングは単に筋肉を大きくするだけでなく、神経系の動員効率を改善し、腱の剛性を高める。これにより、着地時のエネルギー損失が減少し、効率的な反発力が得られる。この適応が、長時間走後のランニングエコノミー維持や疲労時パフォーマンス向上の要因と考えられる。
体重増加の影響が少ない
一般的に筋力トレーニングは体重増加を伴うリスクがあるが、本研究では体重変化は最小限であった。筋量の増加ではなく、筋力発揮効率の向上によるパフォーマンス改善である点も重要である。
市民ランナーにとっての実践的ポイント
取り入れるべき筋力トレーニングの種類
- 最大筋力系:スクワット、デッドリフト、ヒップスラストなど
- プライオメトリクス:ボックスジャンプ、バウンディング、片脚ホップなど
頻度と期間の目安
週2回、10週間程度の継続が効果を示した。ランニング練習とのバランスを取りながら、疲労管理を行うことが前提となる。
ランニング練習との組み合わせ
高負荷筋トレはランニングの質を損なわないよう、ポイント練習とは日をずらすか、強度を調整することが望ましい。
先行研究との比較と本研究の新規性
既存研究との違い
従来の研究は非疲労状態でのランニングエコノミー改善を中心に評価していた。本研究は「耐久性」と「疲労時パフォーマンス」という新しい側面を初めて検証し、実戦的な知見を提供した。
市民ランナーへの応用
市民ランナーはレース後半での失速対策として、持久系トレーニングだけでなく、筋力トレーニングによる神経筋強化が有効である可能性がある。
限界と今後の課題
対象の限定性
研究対象がwell-trainedな男性ランナーに限られており、女性や初級者への適用は慎重に検討する必要がある。
実レースタイムへの影響
TTEや酸素コストの改善が実際のマラソンタイムにどれほど反映されるかは、今後の研究課題である。
まとめ
筋力トレーニングは、マラソン後半の失速防止に直結する「ランニングエコノミーの耐久性」と「疲労時高強度パフォーマンス」を改善する可能性が示された。週2回・10週間の最大筋力+プライオメトリクスは、市民ランナーにとっても現実的な負荷であり、練習計画に組み込む価値が高い。従来の持久走主体のトレーニングに加え、神経筋アプローチを取り入れることで、後半に強い走りを実現できる可能性がある。
参考文献
Strength Training Improves Running Economy Durability and Fatigued High‑Intensity Performance in Well‑Trained Male Runners: A Randomized Control Trial

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