マラソンと重曹の関係をめぐる議論
マラソンやハーフマラソンのレース前、あるいはポイント練習の前に、重曹(炭酸水素ナトリウム)を摂取するとパフォーマンスが上がるという話を耳にしたことはないでしょうか。重曹はもともと家庭用の掃除や料理に使われる素材ですが、スポーツ界では「アルカリ化剤」として注目され、筋肉の酸性化を緩和して疲労を遅らせる効果があると考えられています。
短距離や高強度のインターバルなど、無酸素性の運動ではその効果が複数の研究で示されてきました。しかし、マラソンのような長時間持久運動においては、科学的な検証が少なく、結果も一致していません。そこで今回紹介する研究は、長時間の高強度ランニングにおける重曹摂取の影響を詳細に調べたものです。2017年にPLOS ONE誌で発表されたこの研究は、市民ランナーにとっても非常に実用的な示唆を含んでいます。
重曹(炭酸水素ナトリウム)とは何か
酸塩基平衡と運動中の筋肉
私たちの体内では、運動強度が上がるにつれて乳酸や水素イオンが産生され、筋肉のpHが低下します。これを「酸性化」と呼び、筋肉が重く感じたり、力が出しにくくなったりする要因のひとつと考えられています。
血液や体液にはもともと「緩衝作用」と呼ばれる仕組みがあり、酸性やアルカリ性の変化を一定範囲に保とうとします。その主要成分が炭酸水素イオン(HCO₃⁻)です。重曹を摂取すると、この炭酸水素イオンが体内に増え、酸性化に対するバッファー能力(緩衝能)が高まります。結果として、筋肉内で発生した水素イオンが血液へ効率よく移動し、疲労の進行を遅らせる可能性があります。
研究デザインと方法の詳細
無作為化二重盲検クロスオーバー試験という設計
この研究では、重曹の効果を厳密に評価するため、無作為化二重盲検クロスオーバー試験というデザインが採用されました。参加者も研究者も、どちらが重曹でどちらがプラセボ(偽薬)か分からない状態で試験が行われ、同一人物が重曹とプラセボの両方を体験するため、個人差の影響を最小化できます。
被験者の特徴
被験者は18名のトレーニングを積んだランナーで、男性17名、女性1名。平均年齢は27.9歳、BMIは22.4 kg/m²、最大酸素摂取量(VO₂max)は61.2 ml/min/kgと、市民ランナーの中でもかなり高いレベルの持久力を有する集団でした。
重曹摂取方法と試験プロトコル
- 重曹群:体重1kgあたり0.3gの重曹を700mlの水に溶かして摂取
- プラセボ群:4gの食塩(NaCl)を同量の水に溶かして摂取
- 摂取タイミング:試験開始1.5時間前に摂取
- 実施テスト:
- 漸増負荷テスト:一定時間ごとに速度を上げ、疲労困憊まで走行
- 定負荷テスト:95% IAT(個人無酸素性閾値)で30分、その後110% IATで疲労困憊まで走行
測定項目として、疲労困憊までの時間(Time to Exhaustion, TTE)、最大走速度(Vmax)、最大酸素摂取量(VO₂peak)、血液pH、血中乳酸濃度などが評価されました。
結果:最大スピードは上がるが持久力は変わらない
疲労困憊までの時間(TTE)
定負荷テストにおけるTTEは、重曹群39.6分、プラセボ群39.3分とほぼ同一で、統計的に有意な差は認められませんでした(p=0.78)。つまり、長時間高強度ランニングにおいて重曹は持久力を延ばす効果を示しませんでした。
最大走速度(Vmax)
一方、漸増負荷テストでは結果が異なります。重曹群の最大走速度は17.4 km/hで、プラセボ群の17.1 km/hより有意に高い値を示しました(p=0.009)。短時間で限界まで追い込むテストでは、重曹がパフォーマンスを向上させたことになります。
血液pHと乳酸濃度の変化
重曹摂取後の血液pHは全体的に高く維持され、運動後2分の時点でも正常範囲(7.41±0.06)を保ちました。対照的に、プラセボ群は酸性側にシフト(7.34±0.05)していました。
血中乳酸濃度は重曹群で顕著に高く、最大で11.1 mmol/Lに達し、プラセボ群の8.9 mmol/Lを上回りました。この乳酸の増加は、解糖系エネルギー供給の活性化を示す指標と解釈できます。
データが示す意味:酸性化は本当に疲労の主因なのか
この研究の最大の示唆は、酸性化が抑制されても持久力が向上しなかった点にあります。従来、筋肉の酸性化は疲労の主要因とされてきましたが、今回の結果はそれを再考させます。
重曹を摂取してpHが維持された状態でも、長時間高強度の走行では疲労困憊までの時間が延びなかったことから、マラソンにおける疲労の原因は酸性化だけではない可能性が浮かび上がります。例えば、筋グリコーゲンの枯渇、中枢性疲労(脳の疲労)、体温上昇や脱水など、他の要因がパフォーマンス低下を引き起こしていると考えられます。
副作用という現実的な課題
胃腸障害の高い発生率
18名中15名が重曹摂取後に胃腸障害を経験しました。症状としては、腹痛(6名)、下痢(5名)、吐き気や嘔吐(2名)、めまい(2名)が報告されました。特に110% IATの負荷時に症状が強く現れています。
メカニズムとランニング特有の影響
重曹水溶液は高浸透圧であり、腸内に水分を引き込むことで腹痛や下痢を引き起こすと考えられます。さらにランニングでは体の上下動が大きく、胃腸への負担が増すことも影響している可能性があります。同じ条件で実施された自転車競技の研究では副作用が少なかったことからも、ランニング特有の振動が関与していると考えられます。
他研究との比較と本研究の独自性
短時間高強度運動では、重曹摂取によるパフォーマンス向上は多くの研究で確認されています。自転車競技では一部の研究で持久力向上が報告されていますが、ランニングで同様の効果が見られた研究は少数です。
今回の研究は、ランニングという競技特性に焦点を当て、pHや乳酸の動態を詳細に測定しながら、最大スピードと持久力に対する重曹の影響を比較した点に独自性があります。また、酸性化と疲労の因果関係を再検討するきっかけとなる重要なデータを提供しています。
市民ランナーにとっての現実的な示唆
短距離やラストスパートでの可能性
今回の結果は、マラソンの全行程を通じた持久力向上には効果が乏しい一方で、短時間の全力走行(例:レース終盤のスパート)には有効である可能性を示します。5kmや10kmレース、インターバルトレーニングなど、短時間で最大出力を求められる場面では重曹摂取が有益かもしれません。
副作用リスクと服用方法の工夫
市販の重曹をそのまま溶かして飲む方法では副作用が大きいため、実践する際は慎重な検討が必要です。研究では、カプセル化や分割ローディング(数回に分けて摂取する方法)が副作用軽減に有効とされていますが、いずれも実践前に試験的に行い、体調への影響を確認することが重要です。
今後の研究課題
- 実際のレース環境下での検証(ペース変動や補給を含む条件)
- 長期的な摂取がトレーニング適応に与える影響
- 他のバッファー剤(クエン酸ナトリウム、β-アラニンなど)との比較
- 性差や体重差、競技レベルによる効果の違い
参考文献
Effect of sodium bicarbonate on prolonged running performance: A randomized, double-blind, cross-over study

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