市民ランナーの夜練習と睡眠不安
仕事や家庭の都合から、夕方から夜にかけて練習を行う市民ランナーは少なくありません。しかし、一般的な睡眠衛生のガイドラインでは「寝る前の高強度運動は避けるべき」とされています。理由として、心拍数や交感神経の高まりが入眠を妨げるという説明が広く知られています。
一方で、実際の現場では「夜に追い込むと寝付きが悪い」と感じる人もいれば、「むしろ疲れてぐっすり眠れる」という声も聞かれます。科学的にはどちらが正しいのでしょうか。本記事では、持久系ランナーを対象に行われた最新研究をもとに、夜間の高強度運動が睡眠に与える影響を詳しく解説します。
睡眠がランニングパフォーマンスに果たす役割
睡眠不足と持久系パフォーマンスの関係
睡眠は心身の回復に不可欠であり、筋損傷の修復やホルモン分泌、神経系のリセットに大きく関わります。特にマラソンやウルトラマラソンなどの長時間競技では、睡眠不足が翌日のパフォーマンスや疲労回復に直結します。
一般的な推奨は「1日7時間以上、睡眠効率85%以上」です。睡眠効率とは、ベッドに入っていた時間のうち実際に眠っていた割合を指し、85%未満になると回復不足のリスクが高まります。
睡眠不足がもたらす具体的な影響
睡眠が不足すると、心拍数や血中コルチゾール(ストレスホルモン)が高まり、練習中の主観的疲労も増します。さらに、免疫機能低下による風邪や故障リスクの増加も報告されています。市民ランナーにとっても、睡眠はトレーニングの「見えない補強材」といえる存在です。
なぜ夜の高強度運動は敬遠されてきたのか
ガイドラインでの注意喚起
睡眠衛生のガイドラインでは「就寝直前の激しい運動を避けるべき」と記載されています。その理由は、運動後の交感神経優位や体温上昇が入眠を妨げると考えられてきたためです。
非アスリート研究から生まれた誤解
この指針の多くは、非アスリートを対象にした研究から導かれています。しかし、日常的に高い運動負荷に適応しているランナーの場合、同じ反応が起こるとは限りません。実際に、近年の研究では「適応した持久系ランナーでは夜間運動が睡眠を妨げない可能性」が示されています。
研究の概要と方法
対象者の特徴
対象は持久系トレーニングを習慣とする男性ランナー8名。平均年齢は27.8歳、身長180cm、体重73.5kg、最大酸素摂取量(VO2peak)は57ml/kg/min。10kmの自己ベストは38分06秒と、市民ランナーとしては上級レベルです。
実験デザイン
参加者は3つの条件で実験を行いました。
- 高強度インターバル走(HIGH):90%VO2peakで5分×6本、間に5分の回復走
- 低強度持続走(LOW):45%VO2peakで60分
- 運動なし(CON):安静状態で1時間座位
いずれも夕方に実施し、運動終了から3.5時間後に就寝するスケジュールを厳格に統一しました。
測定方法
- ポリソムノグラフィー(睡眠のゴールドスタンダード):脳波・眼球運動・筋電図・心電図で睡眠段階を詳細に解析
- アクチグラフィー:腕時計型デバイスで睡眠・覚醒パターンを計測
- 主観評価:睡眠日誌による自己申告スコア
さらに夜間の心拍数と心拍変動(HRV)を測定し、自律神経活動も評価しました。
高強度・低強度運動が睡眠に与えた影響
総睡眠時間と覚醒時間の変化
研究の結果、運動を行わなかった場合(CON)と比較して、以下の変化が確認されました。
- 総睡眠時間
CON:462.9分 → HIGH:477.4分、LOW:479.6分
約15分の延長が認められ、統計的に有意でした。 - 覚醒時間
CON:46.6分 → HIGH:31.8分、LOW:30.4分
約15分短縮し、こちらも有意な改善でした。
睡眠段階(NREM・REM)
NREM(浅い眠りと深い眠り)やREM(夢を見る眠り)の割合に大きな変化はありませんでした。ただし、総睡眠時間が延びた分、深い眠りの絶対時間も増加傾向にありました。
主観評価と実測データの違い
興味深いのは、主観的な睡眠スコアでは有意差が出なかった点です。つまり、ランナー本人は「よく眠れた」と強く感じていなくても、実際の脳波計測では睡眠時間が延びていたことがわかります。感覚と実測のギャップは、睡眠研究でよく見られる現象です。
心臓自律神経の反応と睡眠への影響
夜間心拍数の変化
高強度運動後は夜間平均心拍数が50bpmとなり、低強度・運動なし(47bpm)よりわずかに高い値を示しました。これは交感神経の活動が残っていることを意味します。
HRV(心拍変動)の結果
HRVは3条件間で有意差がなく、心臓のリズム変動は安定していました。つまり、交感神経の残存はあっても、睡眠の質そのものを損なうほどの影響はなかったと考えられます。
生理学的な解釈
運動によるエネルギー消費や体温変化、メラトニン分泌の位相前進などが、睡眠の延長に寄与している可能性があります。特に体温は運動後45〜90分で平常化するため、3.5時間の間隔が十分な回復時間として機能したと推測されます。
高強度と低強度のどちらが良いのか
睡眠改善効果は同等
データ上、高強度・低強度いずれも睡眠時間延長と覚醒時間短縮の効果があり、優劣はつきませんでした。むしろ運動の有無が大きな差を生んでおり、「夜に走ること自体」が睡眠改善に寄与した可能性が高いといえます。
翌朝練習との兼ね合い
翌日にポイント練習を控える場合は、低強度ジョグで睡眠改善を狙いながら疲労を抑える選択も有効です。一方、夕方のポイント練習を入れたい場合も、睡眠悪化のリスクは低いことが示されました。
実生活への応用と注意点
夜練習を行う際のポイント
- 終了時刻は就寝3〜4時間前
体温と交感神経の回復を考慮すると、この間隔が理想的です。 - カフェイン摂取は午後早めまで
午後以降のカフェインは入眠を遅らせる要因となります。 - 入浴条件の工夫
ぬるめのシャワーで体温を徐々に下げる方がスムーズな入眠につながります。
慢性的な夜練習の影響は未解明
今回の研究は単発の運動における急性効果を検証したものであり、慢性的な夜練習が睡眠やパフォーマンスに及ぼす影響は今後の課題です。長期的な適応や疲労の蓄積については慎重な観察が必要です。
今後の研究課題と市民ランナーへのメッセージ
本研究は男性8名という小規模な対象であり、女性ランナーや異なる年齢層への適用は未検証です。しかし、厳密な条件下でポリソムノグラフィーを用いたデータは貴重であり、夜間高強度運動が必ずしも睡眠を阻害しないことを示しました。
市民ランナーにとって、仕事後の限られた時間を活用する夜練習は現実的な選択肢です。科学的エビデンスを踏まえ、自身の生活リズムに合わせた柔軟な活用がパフォーマンス向上につながります。
参考文献
- High‑intensity exercise in the evening does not disrupt sleep in endurance runners

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