ランニング界に根強く残る「根性トレーニング」の限界
高強度一辺倒の文化が生む停滞
日本のランニング文化では、「速く走るためには苦しい練習をこなすことが重要だ」という考えが長く根付いています。インターバル走やビルドアップ走のような高強度トレーニングが重視され、乳酸が溜まる限界まで追い込むことが美徳とされてきました。
しかし、実際にはこのような「根性型トレーニング」は、疲労の蓄積や故障リスクの増大、回復の遅れを引き起こし、長期的なパフォーマンス向上を妨げるケースも少なくありません。
科学的アプローチで成功する海外勢
一方で、近年世界のトップランナーたちは、より科学的なトレーニングアプローチを採用しています。特にノルウェーでは「乳酸値」や「心拍数」といった生理学的指標をもとに、走行強度を緻密に管理する手法が確立されています。
代表例が、東京オリンピック1500m金メダリストのヤコブ・インゲブリクトセンをはじめとするノルウェー勢の成功です。彼らは1日に2回、閾値(スレッショルド)付近の走りを行う「ダブル・スレッショルド法」を継続的に実践し、驚異的な記録を残しています。
果たして、本当に効果的なのは「限界まで追い込む」練習なのか。それとも「生理的負荷を精密に管理する」練習なのか――。
科学が示す新たな答え ― ダブル・スレッショルド法とは
そこで今回は、ノルウェー式トレーニングの核心であるダブル・スレッショルド法を体系的に分析した論文
「The Norwegian double-threshold method in distance running: Systematic literature review」
(距離走におけるノルウェー式ダブル・スレッショルド法:系統的レビュー)を紹介します。
この研究は、ノルウェーのエリート中長距離ランナーたちが実際にどのようなトレーニングを行っているかを明らかにし、その生理学的意義を整理したものです。結果として、この手法が「高いパフォーマンスを持続的に支える科学的根拠」を持つことを示しています。
論文の概要と研究背景
研究の基本情報
この論文は2023年に「Scientific Journal of Sport and Performance」で発表されたレビュー研究です。
ハンガリー・スポーツ科学大学のBence Kelemenらの研究チームが、過去のノルウェーエリートランナー13名の長期的なトレーニング記録をもとに、共通する特徴や傾向を抽出しました。
研究の目的
研究の目的は、世界トップレベルのノルウェー選手がどのような強度分布・頻度でトレーニングを行っているのかを体系的に整理し、成功の要因を明確にすることです。
従来の「高強度中心トレーニング」とは異なる、乳酸値を基準とした閾値管理トレーニングの有効性を検証することが狙いでした。
エリートランナーが実践するトレーニングの実態
圧倒的な走行量と強度のバランス
レビューによると、ノルウェーのエリートランナーは週あたり120〜180kmの走行距離を維持しています。
そのうちおよそ75〜80%が「低強度走行」(最大心拍数の62〜82%程度)で構成されており、残りを閾値付近または高強度のトレーニングが占めます。
この「低強度中心+閾値の反復」という設計が、ダブル・スレッショルド法の核です。
閾値トレーニングの頻度と方法
基礎期には週2〜4回、乳酸性閾値付近(おおよそHRmaxの82〜90%)で走るセッションを行い、同日に2回実施する日もあります。
例えば午前中にテンポ走(20〜30分程度)、午後にインターバル走(1000m×6本など)を行うといった構成です。
これにより体内乳酸濃度を4mmol/L前後に維持し、疲労を溜めすぎずに有酸素能力を刺激します。
高強度セッションの最小化
週1〜2回のみ、最大心拍数97%以上に達する高強度インターバルを実施します。距離は短く、800m以下のインターバルやスプリントが中心です。
無酸素性閾値を超えるトレーニングは、基礎期にはほとんど行いません。目的は「過度な疲労を避けつつ、神経的なスピード感覚を維持すること」です。
定量的モニタリング
すべてのトレーニングは乳酸測定器や心拍計によって厳密に管理され、体調や疲労度に応じて調整されます。
トレーニングの「質」を維持するため、選手は常にデータをもとにフィードバックを受けています。
閾値を繰り返すことで得られる科学的効果
有酸素能力の最大化
閾値(スレッショルド)付近で走ることで、筋内のミトコンドリア密度が増加し、酸素を効率よく利用できるようになります。
また、乳酸の生成と除去のバランスが改善し、より速いペースでも酸素供給が間に合う身体が作られます。
回復力の向上
高強度トレーニングを減らし、閾値トレーニングを増やすことで、慢性的な疲労を回避できます。
結果として、継続的に質の高いトレーニングを積み上げられるようになり、ピークパフォーマンスを長期的に維持できます。
「適度な負荷の積み重ね」が強さを生む
従来のように「一度に限界まで追い込む」トレーニングではなく、「毎日、適切な負荷を繰り返す」ことで能力を引き上げる。
この発想の転換こそが、ノルウェー式トレーニングの本質です。
科学的アプローチの裏にある哲学
トレーニングの主目的は「安定した成長」
ダブル・スレッショルド法は、一見すると負荷が高く見えますが、実際には疲労を最小限に抑えるための戦略的な方法です。
1日に2回走るのは「追い込み」ではなく、「適度な刺激を2回に分けて与える」という考えに基づいています。
これにより、過剰な乳酸蓄積や筋損傷を避けながら、代謝系を繰り返し刺激することが可能になります。
科学が裏付ける「感覚よりデータ」
ノルウェー勢は、感覚的な「きつさ」ではなく、乳酸値や心拍数といった客観的データを基準に強度を調整しています。
このようなアプローチは、コンディションの波を最小化し、安定的な成長を支えています。
この手法の課題と限界
エリート専用環境での成立
本論文の対象となった選手は、世界トップレベルのエリートランナー13名です。
彼らは1日2部練が可能なスケジュールと、乳酸測定器を用いた精密な管理環境を持っています。
市民ランナーが同じ方法をそのまま再現するのは現実的ではありません。
過負荷リスクとオーバートレーニング
閾値付近のトレーニングは疲労が蓄積しやすく、頻度や強度を誤ると逆効果になる可能性もあります。
十分な休息と回復を確保しなければ、ホルモンバランスの乱れやパフォーマンス低下を引き起こす恐れがあります。
市民ランナーが取り入れるための実践ステップ
自分の「閾値」を知る
乳酸測定器がなくても、心拍数や主観的運動強度(RPE)を用いることで近似的に閾値を把握できます。
おおよそ最大心拍数の85〜90%程度、もしくは「ややきつい」と感じる強度が目安です。
週2回の閾値セッションから始める
市民ランナーが実践する際は、週2回の閾値走を設定するのが現実的です。
例として、火曜に6kmのテンポ走、金曜に5×1000mの閾値インターバルを行う形が挙げられます。
疲労度を見ながら、徐々に距離や頻度を増やしていくことが望ましいです。
データを「管理ツール」として活用する
心拍計、トレーニングアプリ、睡眠・疲労の記録などを活用し、主観だけに頼らない自己管理を行いましょう。
重要なのは「限界までやる日」ではなく、「適度な負荷で積み上げる日」を増やすことです。
まとめ
ノルウェー式ダブル・スレッショルド法は、単なるトレーニング手法ではなく「走りに対する哲学の転換」を意味しています。
これまでの「限界まで追い込む」発想から、「最適な負荷を正確に積み重ねる」発想へ――。この違いが、トップランナーと市民ランナーの間にある壁を埋める鍵になるかもしれません。
ノルウェーのエリート選手たちは、感覚に頼らず科学的指標を活用し、日々の練習を定量的に管理しています。
この精密さこそが、長期的な成長と再現性の高いパフォーマンスを生み出す源泉です。
そして、その本質は決して特別な環境だけのものではありません。市民ランナーでも、心拍数や体感、日々のデータ記録を用いれば「自分なりのダブル・スレッショルド」を実践することができます。
速く走るために必要なのは、強い意志ではなく「賢い管理」です。
走ることを科学し、自分の身体を理解すること。
それこそが、長く成長し続けるランナーに共通する最も確かな道筋です。
参考文献
- The Norwegian double-threshold method in distance running: Systematic literature review
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