ノルウェー式ダブルスレッショルド法の概要
ノルウェーは人口約500万人の小国ながら、世界的な長距離ランナーを次々と輩出してきました。近年特に注目を集めているのが、Ingebrigtsen(インゲブリグツェン)兄弟を中心とした1500mから5000mでの活躍です。ヨーロッパ選手権や世界選手権でのメダル獲得、さらにはオリンピック金メダルといった実績の裏には、独自のトレーニング哲学があります。
その代表例が、「ノルウェー式ダブルスレッショルド法」です。従来のマラソントレーニングと異なり、乳酸値をモニタリングしながら1日に2回の閾値走(スレッショルド走)を行うことを特徴とします。本記事では、その理論背景から具体的なトレーニング構成、市民ランナーへの応用可能性までを詳しく解説します。
ダブルスレッショルド法の基本概念と定義
閾値(スレッショルド)とは?
「閾値」とは、運動中に血中乳酸濃度が急上昇する境目の強度を指します。この閾値領域は、血中乳酸値2〜4 mmol/L程度に相当し、有酸素代謝と無酸素代謝のバランスが切り替わる重要なポイントです。
この強度は、心拍数では最大心拍数の82〜92%、体感ではややきつい〜きついレベルに該当し、マラソン〜ハーフマラソンペースに近い速度です。
ダブルスレッショルド法の特徴
ノルウェー式では、この閾値領域のトレーニングを1日に2回(午前と午後)行う日を週2回設定します。これにより、1回あたり8〜12kmの閾値走を合計16〜24km消化しつつ、乳酸蓄積を防ぎながら高ボリュームの持久刺激を得ることができます。
他のトレーニング法との違い
従来主流だったポラライズドトレーニング(低強度80%+高強度20%)では、閾値領域の時間は限定的でした。一方、ノルウェー式は閾値領域を主軸に置く点が異なります。
これにより、長時間の有酸素適応とスピード持久力を同時に高めることが可能になりました。
トレーニング量と強度分布の実態
高ボリューム:週120〜180 km
レビューによると、エリートランナーの週走行距離は120〜180 km。冬の基礎期では180 kmに達し、夏の競技期には120〜140 km程度まで減少します。
具体例:
- Grete Waitz(1979年):123 km/週(3000m 8:31.75)
- Ingrid Kristiansen(1985-86年):155 km/週(10000m 30:13.76)
- Henrik Ingebrigtsen(2012年):150 km/週(1500m 欧州選手権優勝)
5ゾーンモデルでの強度管理
ノルウェー式では、トレーニングを5つの強度ゾーンで管理します。
- Zone 1(0.7〜2.0 mmol/L):低強度ジョグ、回復・ランニングエコノミー改善
- Zone 2(2.0〜4.0 mmol/L):閾値走、VO2max・vAT向上
- Zone 3(4.0〜8.0 mmol/L):強めの有酸素、短時間インターバル
- Zone 4(>8.0 mmol/L):無酸素、800m〜1500mペース
- Zone 5:スプリント
実際の強度分布
- 低強度(Zone 1):75〜80%
- 閾値(Zone 2):15〜20%
- 高強度(Zone 4〜5):5%以下
Zone 3は極力排除し、「低+閾値+高強度スプリント」という三極構造を採用しています。
閾値走の具体的構成と方法
午前と午後で異なるセッション
午前:長めの閾値インターバル(例:5×6分、1分休憩、乳酸2.5 mmol/L)
午後:短めの閾値インターバル(例:12×1000m、1分休憩、乳酸3.5 mmol/L)
これにより1日合計16〜20 kmを閾値域で走り、乳酸を制御しながら持久力を強化します。
実例:Kalle Berglund(2018-2019シーズン)
- 火曜午前:5×6分(1分レスト)、乳酸2.5 mmol/L
- 火曜午後:10×1000m(1分レスト)、乳酸3.5 mmol/L
- 木曜午前:5×2 km(1分レスト)、乳酸2.5 mmol/L
- 木曜午後:25×400m(30秒レスト)、乳酸3.5 mmol/L
セッションボリューム
1回あたり8〜12 km、週合計30〜40 kmを閾値領域で消化。残りの日は低強度ジョグやロングランで全体量を確保します。
競技期と基礎期での移行
基礎期(冬季)
- 閾値走が中心
- 低強度比率80%
- 高強度は週1回のみ(スプリント・ヒルスプリント)
競技期(夏季)
- 閾値走を減らし、レースペース(Zone 4)の割合を増加
- 短距離インターバルやスプリントで仕上げる
- 試合の合間は低強度を増やし疲労回復を優先
生理学的背景と効果
VO2max・ランニングエコノミーの向上
ノルウェー式による長期的適応として、VO2max 80〜85 ml/kg/min以上という世界最高水準が報告されています。
例:
- Henrik Ingebrigtsen:84.4 ml/kg/min
- Marius Bakken:87.4 ml/kg/min
疲労耐性・回復力の向上
低強度走をベースにすることで疲労を抑えながら高頻度閾値走を継続可能。長期的にはミトコンドリア増加・毛細血管新生・乳酸クリアランス向上が生じます。
市民ランナーが取り入れる際のポイント
乳酸測定が難しい場合の代替指標
- 心拍数:最大心拍数の82〜92%
- 主観的運動強度(RPE):10段階で「7〜8」程度
導入ステップ
- まず週1回、単発の閾値走を導入
- 適応後、週2回へ増加し午前・午後に分割
- 高強度は週1回まで、疲労が溜まる前にリカバリー
リカバリー戦略
- 睡眠・栄養(炭水化物・タンパク質)を重視
- 週1日の完全休養を設定
- 安静時心拍やRPEで疲労度をチェック
研究結果の意義と今後の展望
ノルウェー式は世界的な長距離走トレンドとして注目され、スウェーデンや他国エリートにも導入されています。市民ランナーにおいても、高ボリュームは不要ながら、閾値トレーニングの考え方は非常に有効です。
今後は、ウェアラブルデバイスによる乳酸推定やAI解析を用いたトレーニング最適化が進むことで、この手法の応用範囲はさらに広がると考えられます。
参考文献
- The Norwegian double-threshold method in distance running: Systematic literature review

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