ランニングにおける強度設定の重要性
強度分布がトレーニング効果を決める
ランニングにおいて「どのくらいの強度で走るか」は、持久力の向上を左右する重要な要素です。強度分布とは、低強度・中強度・高強度といったトレーニングをどの割合で組み合わせるかを意味します。近年の研究では、単に走行距離や時間を積み重ねるだけでなく、強度の配分そのものが競技力の伸びを決めると報告されています。
市民ランナーにとっての課題:自己流のペース設定
市民ランナーの多くは、練習の強度を「感覚」に頼って決めています。体感的に楽かきついかで判断することは可能ですが、科学的な根拠に基づいた指標を使うことで、より効率的かつ安全にトレーニングを積むことができます。その中核となるのが「臨界速度(Critical Speed, CS)」と「中強度と高強度の境界(T1)」です。
臨界速度(Critical Speed)とは
定義と生理学的背景
臨界速度とは、持続可能な最速の速度を示す指標です。生理学的には「無限に持続可能な速度」と定義されますが、実際には疲労が蓄積するため永遠に走り続けることはできません。おおよそ30分から60分程度持続できる速度を指し、酸素摂取能力やエネルギー供給の持続性を反映しています。
臨界速度の算出方法と特徴
臨界速度は、複数の距離を全力で走った際の「距離とタイムの関係」から計算されます。例えば、1500m・3000m・5000mなどのレース記録をもとに直線回帰を行うことで算出可能です。臨界速度は日常的なトレーニング記録からも導けるため、専用の検査を受けなくても手軽に推定できます。
市民ランナーが活用できる理由
臨界速度は再現性が高く、トレーニングログから算出できるため、一般のランナーにも活用しやすい点が大きな魅力です。フィールドでの実測データを活かせるため、研究室や特殊な機材がなくても利用可能です。
中強度と高強度の境界(Moderate–Heavy Boundary)とは
乳酸閾値(Lactate Threshold, LT)やガス交換閾値(GET)の説明
中強度と高強度を分ける境界は、一般に第一閾値(T1)と呼ばれます。乳酸閾値(LT)やガス交換閾値(GET)、換気性閾値(VT1)などの測定によって決定されることが多いです。これらはいずれも体内でのエネルギー供給の様式が変化する地点を意味します。
T1(第一閾値)が意味するもの
T1を超えると、体内では乳酸が少しずつ蓄積し始め、代謝の安定性が崩れます。そのため、長時間持続可能な強度はT1以下に限られるとされます。
なぜ測定が難しいのか
T1の測定には呼気ガス分析や血中乳酸測定といった専門的なテストが必要です。市民ランナーにとってこれらを定期的に実施するのは費用や時間の面で現実的ではありません。
最新研究が示すT1と臨界速度の関係
研究の目的と方法
2024年に発表されたシステマティックレビューでは、T1とCSの位置関係を明らかにすることを目的としました。26件の研究から527名のランナーを対象にデータを統合し、T1がCSに対してどの程度の割合に位置するかを分析しました。
被験者データの概要
研究ではランナーを3つのグループに分け、CSの平均値ごとに分類しました。
- Low CS群:11.5 km/h(95% CI 11.2–11.8)
- Medium CS群:13.4 km/h(95% CI 13.2–13.7)
- High CS群:16.0 km/h(95% CI 15.7–16.3)
主な結果
全体として、T1はCSの約82.3%(95% CI 81.1–83.6)に位置しました。つまり、臨界速度の8割強が、中強度から高強度へ移行する境界であると示されたのです。
フィットネスレベルによる違い
グループ別にみると、
- Low CS群:T1はCSの80.6%(95% CI 78.0–83.2)
- Medium CS群:T1はCSの83.2%(95% CI 81.3–85.1)
- High CS群:T1はCSの84.2%(95% CI 82.3–86.1)
このように、フィットネスレベルが高いランナーほど、T1がCSに近づく傾向がありました。
効果量の解釈
統計的には、medium群とlow群の差は小(g=0.296)、high群とlow群の差も小(g=0.227)、medium群とhigh群の差はごくわずか(g=0.076)と評価されました。つまり差は存在するものの、劇的ではないことがわかります。
結果が示す意味
CSからT1を推定できる可能性
この研究は、臨界速度からおおよそのT1を推定できる可能性を示しました。これにより、従来は専門機関でしか測れなかった指標を、市民ランナーが手元のデータから間接的に得られることになります。
トレーニング強度ゾーンのリモート設定に応用
臨界速度を計算するだけで、自分のT1を概ね推定できるため、練習の強度設定をより科学的に行うことが可能になります。特に、スマートウォッチやランニングアプリの普及により、個人でも簡単にCSを把握できるようになったことは大きな進歩です。
市民ランナーにとってのメリットとリスク
メリットは、手軽に強度設定ができることです。一方でリスクは、あくまで推定値であるため誤差を含む点です。過信して無理な強度で走ると、オーバートレーニングやケガの原因となる可能性もあります。
実際のトレーニングへの応用例
CSを指標としたゾーン分けの方法
CSを基準にして、トレーニングゾーンを設定することができます。例えば、ジョグはCSの70%前後、ペース走はCSの85〜95%、インターバルはCSを超える強度といった具合です。
T1をCSの割合で近似する実用的係数
研究では以下の近似係数が示されました。
- Low CS群:CS × 0.806
- Medium CS群:CS × 0.832
- High CS群:CS × 0.842
自分のCSがわかれば、これらを用いてT1を推定し、ゾーン設定に役立てることが可能です。
ペース走・インターバル走・ジョグに落とし込む具体例
例えば、CSが14 km/hのランナーの場合、T1は約11.6 km/hと推定されます。この場合、ジョグは10 km/h前後、ペース走は12〜13 km/h、インターバルは14 km/h以上と設定することができます。
注意点と限界
測定法の違いによる誤差
研究ごとにT1の測定法が異なるため、結果には一定のばらつきが含まれています。個人差も大きいため、あくまで目安として捉えることが重要です。
年齢・性別・体格・環境要因の影響
T1とCSの関係は、年齢や性別、体格、さらには暑熱環境などの外部要因によっても変化する可能性があります。個別の背景に合わせて解釈する必要があります。
高レベルランナーに必要な正確測定
市民ランナーにとっては推定値でも十分役立ちますが、エリートランナーや競技志向の強い人は、正確な測定によって閾値を把握することが望ましいです。
今後の研究と市民ランナーへの展望
標準化された測定法の必要性
今後はT1やCSの測定法を統一し、誤差の少ないデータを積み重ねることが求められます。
ウェアラブル技術との統合可能性
心拍数や呼吸数をリアルタイムで測定するデバイスと組み合わせれば、さらに精度の高い推定が可能になるでしょう。
より精緻な強度設定がもたらす競技力向上
科学的なデータに基づいて練習強度を設定することで、効率的なトレーニングとケガの予防を両立できると期待されます。
まとめ
臨界速度とT1の関係性の再確認
T1は臨界速度のおよそ82%前後に位置し、フィットネスレベルが高いほどその割合はやや高まることが示されました。
市民ランナーが得られる実用的知見
CSを計算するだけで、おおよそのT1を推定できるため、強度設定に役立つ大きな指針となります。
科学的根拠をもとにした強度設定の重要性
体感や勘に頼るのではなく、データを基盤にトレーニングを設計することが、効率的かつ安全なランニングライフにつながります。
参考文献
- The Relationship Between the Moderate–Heavy Boundary and Critical Speed in Running

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