ノルウェー式ダブルスレッショルドは本当に「魔法」なのか?世界トップランナーが積み上げる負荷の実態を読み解く

目次

ノルウェー長距離界が築いた独自の強さ

小国から生まれた世界トップの強さ

ノルウェーという人口の少ない国から、近年の陸上長距離界を代表する選手たちが次々に登場しています。インゲブリグツェン兄弟をはじめ、グレテ・ワイツ、イングリッド・クリスチャンセン、そしてマリウス・バッケンなど、多くの選手が世界レベルの成績を残してきました。その背景にあるのが、彼らが長年取り組んできた「ノルウェー式ダブルスレッショルド」です。

この記事は、2023年に発表された論文「The Norwegian double-threshold method in distance running: Systematic literature review」を基に構成しています。本論文は、ノルウェーのエリートランナー13名の長期的なトレーニングデータを整理した体系的レビューであり、特に1日2回の閾値トレーニングを中心とした独自の構造に焦点を当てています。

なぜノルウェーの選手たちは強いのか。何がトレーニングの中核となっているのか。この問いを明らかにすることが本記事の目的です。


ノルウェー式の本質は「高ボリューム×精密な強度管理」

全体構造を先に把握する

結論から言えば、ノルウェー式ダブルスレッショルドの特徴は「巨大なトレーニング量」と「精密な乳酸・心拍管理」によって成立している点にあります。

週120〜180kmの走行距離を土台に、75〜80%を低強度、15〜20%を閾値域(乳酸2〜4mmol/L)に配分し、残りを短時間の高強度に充てるという構造がほぼ共通していました。特に特徴的なのは、閾値域の量が非常に多く、1日2回の閾値インターバル(ダブルスレッショルド日)によって効率的に負荷を積む点です。

論文では、Zone 2と呼ばれる閾値強度の走行距離が週30〜40kmに達するケースもあり、それらを安全に遂行するために乳酸値を常に管理し、強度の上振れを徹底的に防いでいることが示されています。

この記事では、こうしたノルウェー式の構造を段階的に紐解き、後半では実務的な示唆まで整理していきます。


トレーニング内容はどのように収集されたのか

研究対象と収集された情報

本レビューの対象となったのは、ノルウェーおよびスウェーデンのエリートランナー13名で、1500〜10,000mのトップレベル選手が中心です。対象者の詳細(年齢・身長・体重など)は原著論文側に分散しており、本レビューには一部のみ記載されています。

収集されたデータの範囲は以下の通りです。

  • 週走行距離
  • トレーニング強度(乳酸値・心拍数)
  • セッション内容(インターバル・持続走など)
  • 年間周期(ベース期・競技期)
  • トレーニング頻度(1週間あたりの回数)

各トレーニングの強度は、乳酸値と心拍数に基づく5段階のゾーンで整理されました。特にZone 2は乳酸値2〜4mmol/Lの範囲で、いわゆる「閾値トレーニング」と呼ばれる領域です。このゾーンで多くの時間を過ごす点こそがノルウェー式の核となっています。


トレーニング量と強度分布の実像

高ボリュームが前提となっている

レビューに含まれた選手の週走行距離は120〜180kmに集中しており、冬季は180km近くまで増える例も見られました。特にジュニア段階においても115〜145km/週を走っていたことが示されており、若年期からの有酸素的な基盤づくりが重視されています。

Zone 1(低強度)

全体の75〜80%を占める低強度走は、回復促進と有酸素能力の拡大を担っています。

Zone 2(閾値)

特筆すべきは、週30〜40kmにも達する閾値域の量です。これは世界基準でも非常に多く、ノルウェー式の際立った特徴と言えます。

Zone 3・Zone 4・Zone 5

中強度(Zone 3)はほとんど用いられていません。代わりに、短いVO2max系のインターバル(Zone 4)を週1回前後実施するのみで、全体の数%に留まっています。


ダブルスレッショルドが成立する条件

閾値負荷を2回に分ける合理性

ダブルスレッショルドとは、午前と午後にそれぞれ閾値インターバルを行う日のことです。代表例では以下のような構成が紹介されています。

午前:5×6分(レスト1分、乳酸約2.5mmol/L)
午後:10×1000m または 25×400m(乳酸約3.5mmol/L)

1日の中で合計20km以上の閾値走を消化しつつも、乳酸値を管理し強度を上げすぎない点が重要です。これにより、高い総負荷を安全に積み上げられます。

乳酸・心拍を基準にした強度管理

強度が上がりすぎると翌日に疲労が残り、継続的な負荷構築が破綻します。そのため、ノルウェーの選手たちは休息間の乳酸値を頻繁に測定し、「2〜4mmol/L」という範囲を厳密に守ります。

ペース感覚ではなく、生体指標による管理が不可欠であり、ここにノルウェー式の科学的な特徴が表れています。

ジュニア期からの長期的積み上げ

17〜19歳のジュニアチームでも、週の約20%を閾値に割いていました。この継続が長年積み重なり、大人になってからの結果に結びついていることが示唆されています。


このモデルは何を保証し、何を保証しないのか

相関として読み取れるもの

ノルウェー式の構造は、以下の生理学的特徴と結びついています。

  • 最大酸素摂取量が非常に高い(例:VO2max 84〜87mL/kg/min)
  • レースペース付近の速度で長時間耐えられる
  • 年間を通じた高い競技成績

これは「大量のZone 1+大量のZone 2+少量のZone 4」の組み合わせで得られた適応と考えられます。

しかし、因果として断定できないこと

本論文は観察研究のレビューであり、以下は証明されていません。

  • ダブルスレッショルドによって必ず速くなる
  • 週30〜40kmの閾値が最適である
  • Zone 3を排除すると怪我が減る

つまり、このトレーニング構造を「原因」とし、成績を「結果」と断言することはできません。ノルウェー選手の成功の一部に寄与していると解釈できるだけです。

反対意見とその整理

よくある反論として、以下のようなものがあります。

  • ダブルスレッショルドは故障リスクが高い
  • 低強度を増やせば十分ではないか
  • 日本の環境では再現できない

これに対して論文が示しているのは、「乳酸と心拍管理によって強度を制御しているため、実は過剰な負荷になっていない」という点です。トレーニング量自体は大きいものの、強度のピークは意外なほど低く抑えられていることが重要です。


現場で応用するための視点

真似をしてはいけない理由と、学ぶべき本質

ノルウェー式をそのまま再現することは、一般のランナーには非現実的です。なぜなら、

  • そもそもの走行距離が圧倒的に大きい
  • 乳酸測定による精密な強度管理が必須
  • 長年積み上げてきた基盤が必要

という条件が必要だからです。

しかし、以下の本質は現場で応用できます。

応用できるポイント

  • 高強度よりも、低強度と閾値を丁寧に積む
  • 閾値トレーニングは「上げすぎない」ことが最重要
  • 強度管理を生理指標で行う(乳酸が無理なら心拍で代用)
  • 週単位ではなく、月・年単位の基盤づくりを意識する

ノルウェー式の本質は、科学的指標に基づいた「精密な負荷設計」です。


全体のまとめと今後に残される問い

ノルウェー式が示す原理

この記事で整理したように、ノルウェー式ダブルスレッショルドの核心は以下の通りです。

  • 長期的な高ボリューム有酸素基盤
  • 閾値領域を大量に積む設計
  • 生理指標を基準とした精密な強度管理
  • 中強度(Zone 3)を避ける独特の構造

これらが組み合わさることで、世界トップクラスのパフォーマンスが支えられています。

今後の問い

しかし、まだ明らかになっていない点も存在します。

  • ダブルスレッショルドは普遍的に有効なのか
  • 個々の選手特性による最適強度配分の違い
  • ジュニア期からの高ボリュームが健康面に与える影響

これらは今後の研究と現場での検証が必要です。


用語解説

  • 【ダブルスレッショルド】
     1日2回の閾値トレーニングを行う日。午前と午後に分けて行うことで、強度を抑えつつ総負荷を高める方法。
  • 【閾値トレーニング】
     乳酸値2〜4mmol/Lの範囲で実施するトレーニング。レースペースに近い速度での持続走やインターバルが含まれる。
  • 【トレーニング強度分布】
     週・月の中で、Zone 1〜5のどの強度にどれだけ時間や距離を割くかを示した構造。
  • 【Zone 1〜5】
     乳酸値・心拍数に基づく5段階の強度区分。Zone 1は低強度、Zone 2は閾値、Zone 3は中強度、Zone 4は高強度、Zone 5はスプリントに相当する。
  • 【vVO2max】
     最大酸素摂取量を発揮する際の走速度。選手のピーク速度やVO2maxの実効性を示す指標。
  • 【vAT】
     嫌気性閾値での走速度。レースペースに直結するため、長距離走の重要な指標となる。
  • 【オーバーリーチング】
     短期的な過負荷状態。回復が追い付かず、疲労が蓄積してパフォーマンスが低下する段階。

参考文献

  • The Norwegian double-threshold method in distance running: Systematic literature review
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