マラソン2時間の壁とは
世界中で議論される「サブ2」の挑戦
マラソンを2時間以内で走るという挑戦は、長年にわたってスポーツ科学者やランナーの間で議論されてきました。2019年にはエリウド・キプチョゲ選手が非公式レースで1時間59分40秒を記録し、人類がこの壁を超えることを示しました。しかし、国際陸連公認の条件下で「サブ2」が達成されるためには、未だに多くの課題が残されています。
21.1km/hという驚異的なペースの意味
2時間でフルマラソンを走り切るためには、1kmあたり2分50秒、すなわち時速21.1kmで走り続ける必要があります。これは市民ランナーのインターバル練習で全力に近いペースを、42.195kmという距離で維持し続けることを意味します。この数値が、なぜ「生理学的な限界」と呼ばれるのかを解き明かすために、実際のデータが求められてきました。
エリートだけでなく市民ランナーにとっての示唆
一見、市民ランナーには無縁に思えるサブ2の議論ですが、ここで得られた知見は一般のマラソントレーニングにも直結します。なぜなら、酸素摂取量やランニングエコノミー、乳酸閾値といった要素は、レベルを問わずマラソンのパフォーマンスを決める根幹だからです。
マラソンパフォーマンスを決める3つの要素
最大酸素摂取量(VO2max)とは何か
最大酸素摂取量とは、体が1分間に取り込める酸素の最大量を指します。単位は「mL/kg/min」で表され、持久力の代名詞とも言えます。数値が高いほど高強度の運動を持続できる可能性が高まります。エリートランナーでは70〜80 mL/kg/minに達することがありますが、市民ランナーでは50〜60 mL/kg/minが一般的です。
持続可能な割合 ― 乳酸閾値(LT)と臨界速度(CS)
VO2maxのすべてを持続することは不可能であり、現実的にはその一定割合で走り続けることになります。その持続可能な割合を示す指標が乳酸閾値(LT)や臨界速度(CS)です。LTとは乳酸が血中で急激に増加し始めるポイントで、CSはその上限をさらに厳密に表す指標です。これらは「どこまで無理なく走れるか」を判断する基準となります。
ランニングエコノミー(走行経済性)という指標
ランニングエコノミーとは、1km走るのに必要な酸素量を示す指標で、燃費の良し悪しに相当します。エリートランナーの値は170〜190 mL/kg/km程度で、値が小さいほど少ない酸素でスピードを維持できることを意味します。市民ランナーの場合、この値が大きくなる傾向があり、それがタイムの差に直結します。
世界最高峰ランナー16名の実測データ
被験者の特徴(年齢・体格・自己記録)
対象となったのは世界トップレベルの男子ランナー16名で、平均年齢は29歳、身長は1.72m、体重は58.9kgでした。ハーフマラソンの自己記録は59分53秒、フルマラソンは2時間6分53秒という驚異的なレベルです。
実験方法:トレッドミルとトラックでの検証
実験はトレッドミルでの漸増負荷テストと、実際のトラック走を組み合わせて行われました。トレッドミルではVO2maxや乳酸値の測定が行われ、トラックでは21.1km/hで走った際の酸素消費量(O2コスト)が測定されました。
測定項目:VO2max、LT、LTP、走行経済性、バイオメカニクス
VO2maxのほか、乳酸閾値(LT)、乳酸ターンポイント(LTP)、走行経済性、さらに接地時間やストライドといったバイオメカニクス的なデータも収集されました。これにより、単なる酸素消費量だけでなく、走りのメカニズムまでを解析することができました。
2時間ペースで走ると何が起きるのか
酸素消費量と必要なエネルギー
21.1km/hで走ると、59kgのランナーは毎分約4.0Lの酸素を消費する必要があります。これは体重当たりでは67 mL/kg/minに相当し、VO2maxの94%に達します。つまり「限界の一歩手前」で42kmを走り続けることが求められるのです。
16人中7人だけが達成できた定常状態
実際に定常的な酸素消費状態を維持できたのは16人中7人だけでした。残りの選手は酸素消費が時間とともに増加し続ける「スロウコンポーネント」が見られ、持続可能な範囲を超えていることが分かりました。
定常に達しない選手に見られたVO2スロウコンポーネント
VO2スロウコンポーネントとは、一定の強度で走っているにもかかわらず酸素消費量がじわじわと増加してしまう現象です。これが出現すると、最終的にはVO2maxに達してしまい、走行を維持できなくなります。
トレッドミルと屋外走の比較
酸素コストに差はあるのか
トレッドミルと屋外トラックでのO2コストはほぼ同じでした。例えば21km/hでのO2コストはトレッドミル188 mL/kg/km、トラック191 mL/kg/kmと差はわずかです。
1%勾配補正の妥当性
トレッドミル走では空気抵抗がないため、1%の勾配を設定することがよくあります。この研究でも同様の設定がされ、21km/hでも現実的な再現性があることが確認されました。
空気抵抗の影響と市民ランナーへの示唆
速度が上がるほど空気抵抗の影響は大きくなります。市民ランナーでもフルマラソンでサブ3を狙うレベルでは無視できない要因であり、風の強さやドラフティングの有無が結果を左右します。
バイオメカニクスから見えるもの
接地時間と走行経済性の相関
接地時間が短いほど走行経済性が良いことが示されました。研究では接地時間とO2コストに有意な負の相関がありました。
エリートランナーのストライドと接地特性
平均的な接地時間は0.16秒、ストライド長は1.74m(身長の100%程度)でした。これらはエリート特有の効率的なフォームを示しています。
フォアフット vs リアフット ― 本当に効率は違うのか
研究では前足部着地(フォアフット)と後足部着地(リアフット)の間で決定的な差は見られませんでした。効率を決めるのは着地パターンよりも、接地時間や垂直方向のブレの小ささでした。
サブ2時間に必要な条件
VO2max、走行経済性、持続割合の組み合わせ例
例えばVO2maxが76 mL/kg/minのランナーがO2コスト191で走れば、2時間切りには88%のVO2maxを維持する必要があります。一方、VO2maxが80なら必要割合は84%に下がります。
臨界速度22km/hという基準値
この研究では、サブ2を達成するには臨界速度(CS)が少なくとも22km/hに到達している必要があると結論づけています。
トップランナーの実際のレース強度(CSの96%)
実際のエリートマラソン選手は、臨界速度の約96%でフルマラソンを走っています。これは市民ランナーにとっても、自分のCSを基準に練習やレースペースを設定する上で参考になります。
トレーニングの実践的示唆
高いCSを養うための練習方法
高い臨界速度を持つためには、持久的な走力とスピード持続力を組み合わせた練習が必要です。
週170〜230kmのボリュームと周辺CS強度トレーニング
エリートは週170〜230kmを走り、週2〜3回は臨界速度付近のトレーニングを実施しています。市民ランナーはここまでの量は不要ですが、CS付近での走り込みは有効です。
400m×25本、1000m×15本などのメニュー例
具体的には、400mを25本、1000mを10〜15本、1マイルを6〜8本といったインターバル練習が紹介されています。これらは市民ランナーにとっては縮小版を取り入れる形で応用可能です。
その他の要因と戦略
気温・湿度・風・補給・コースの影響
生理学的な条件だけでなく、気象条件や補給、コース形状がパフォーマンスに大きく影響します。
ドラフティングやシューズ革新の役割
キプチョゲ選手の挑戦で示されたように、ドラフティングや厚底シューズの活用はO2コストを下げ、パフォーマンスを後押しします。
「生理学+環境+戦術」の総合力で決まるパフォーマンス
サブ2は単なる体力勝負ではなく、生理学的能力と環境要因、戦術のすべてが噛み合うことで初めて実現するのです。
市民ランナーにとっての学び
VO2maxを上げることの限界
VO2maxは遺伝的要素の影響も大きく、限界があります。むしろ走行経済性の改善やCSの向上が重要です。
ランニングエコノミーを改善する方法
短い接地時間、上下動の少ないフォーム、筋力強化などが走行経済性を改善する手段です。
臨界速度を基準にした現実的な目標設定
市民ランナーが自分のCSを把握し、その96%程度をマラソンの目安にすることで、現実的かつ効率的なレース戦略を立てることができます。
まとめ
マラソン2時間切りの挑戦は、限られたエリートの話に見えますが、その裏にある科学的知見は市民ランナーにも大きな示唆を与えます。最大酸素摂取量、乳酸閾値、走行経済性、そして臨界速度。それらをどう組み合わせるかが、自分の可能性を広げるカギとなります。サブ2の挑戦は、人類全体の限界を探る試みであると同時に、私たち市民ランナーにとって「科学的に自分の限界を知り、それを少しずつ更新していく」ための道しるべでもあるのです。
参考文献
・Physiological demands of running at 2-hour marathon race pace

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