マラソンペース管理と心拍数の信頼性
マラソンに挑む市民ランナーの多くが、練習や本番で心拍計を活用し、心拍数を指標にしてペース管理を行っています。一般的に「最大心拍数(HRmax)の65〜80%で走れば乳酸閾値以下の有酸素ゾーンを維持できる」とされ、この考え方に基づいてペース設定を行うランナーは少なくありません。しかし、果たして心拍数は実際の酸素摂取量(VO2max)や代謝状態を正確に反映しているのでしょうか。
最新の研究は、この常識に一石を投じています。マラソン中の心拍数は一定の範囲に留まる一方で、VO2maxは距離の進行とともに低下し、両者の間に乖離が生じることが明らかになりました。この現象は特に4時間以上かかる市民ランナーで顕著に見られます。
この記事では、その研究内容と結果を詳細に解説し、市民ランナーがペーシングを考えるうえで心拍数をどう活用すべきか、あるいは依存しすぎることのリスクを考察します。
VO2maxと心拍数の基礎知識
VO2maxとは
VO2max(最大酸素摂取量)は、運動中に体が取り込める酸素の最大量を示す指標です。単位は mL/kg/min(体重1kgあたり毎分何mLの酸素を取り込むか)で表されます。持久力を評価する最も代表的な指標の一つであり、数値が高いほど高強度の運動を長時間持続できる能力があるとされます。
心拍数と最大心拍数(HRmax)
心拍数は1分間あたりの心臓の拍動数を表します。HRmaxは理論値として「220-年齢」で推定されることが多いですが、実際には個人差が大きく、実測で確認する方が正確です。心拍数と運動強度にはおおよそ相関があり、トレーニングゾーン設定やペース管理の指標として広く用いられています。
乳酸閾値と換気閾値
乳酸閾値(LT)や換気閾値(VT)は、運動強度が上がり体内で乳酸が急増し始める点、または換気量が急増する点を指します。これらは有酸素運動から無酸素運動へ移行する境界を示すもので、マラソンペースの指標としても重要視されます。
研究概要:マラソン中の心拍数とVO2maxの乖離
被験者と方法
本研究では、平均年齢41.7歳の男性市民ランナー10名を対象に、以下の2段階の実験を行いました。
- 増加負荷テスト(Université de Montréal Track Test)
- 400mトラックを使用し、20mごとにコーンを設置。ビープ音でペースを上げる形式。
- VO2max、HRmax、無酸素閾値を測定。
- 実際のマラソンレース
- 2週間後にパリマラソンで同一ランナーを測定。
- 携帯型ガス分析装置で走行中の酸素摂取量と心拍数を連続記録。
対象ランナーはサブ4(高速群)と4時間超(低速群)に分類され、それぞれのパフォーマンスや生理応答を比較しました。
結果:心拍数は高止まり、VO2maxは低下
心拍数とVO2maxの経時変化
マラソン中、心拍数は5km以降で88〜91%HRmaxという高いレベルで安定していました。走っている本人や心拍計の数値だけを見ると「強度は変わっていない」と感じやすい状況です。
しかし、実際には酸素摂取量(VO2max比)は81%から74%へ徐々に低下していました。つまり、同じ心拍数でも体が取り込める酸素量や代謝効率は落ちており、パワーを発揮する能力が下がっていたのです。
その結果、心拍数とVO2の比率(%HRmax/%VO2max)は1.01から1.19へ上昇。心拍数は高止まりしているのに酸素利用は下がるため、心拍数を基準にペースを維持すると「本来の能力以上に頑張ってしまう」リスクが高まります。
要するに、「心拍数=運動強度」と単純に考えてしまうと、後半に失速したり、30kmの壁にぶつかるリスクが大きくなるということです。
高速群と低速群の比較
- 高速群(平均3時間25分):マラソンペースはvVO2maxの74%、後半のペース低下は軽度。
- 低速群(平均4時間55分):マラソンペースはvVO2maxの53%、30km以降で歩行が発生し、エネルギーコスト(Cr)が上昇。
低速群では30km以降にペース維持が困難になり、心拍数は高いまま酸素摂取効率が低下する傾向が強く見られました。
心拍数とVO2maxの乖離が起こる理由
心血管ドリフト
長時間運動では心拍数が徐々に上昇する「心血管ドリフト」が発生します。これは体温上昇や脱水により血漿量が減少し、同じ運動強度でも心拍数が高まる現象です。この結果、心拍数が高い=強度が高い、という単純な判断が成り立たなくなります。
ペース低下と代謝変化
マラソン後半では筋グリコーゲンの枯渇や疲労によりペースが低下します。しかし心拍数は高止まりするため、実際の酸素摂取量は下がっていても「心拍数は高い」という状態が生じます。
市民ランナー特有の要因
市民ランナーは練習量や経験値に個人差が大きく、補給やペーシング技術が不十分なケースも多いです。初マラソンでは特に後半の失速が顕著で、心拍数とVO2の乖離が大きくなる傾向が見られます。
心拍数依存ペーシングのリスク
誤った代謝強度判断
心拍数だけに頼ると、実際には強度が落ちているにもかかわらず「心拍数が高い=強度が高い」と誤認し、無理にペースを落とす、あるいは維持しすぎてオーバーペースになる危険があります。
乳酸閾値理論との乖離
従来の心拍ゾーン理論は乳酸閾値を基準にしていますが、マラソン本番では心拍数が閾値付近に留まる一方で、VO2は低下していくため、ゾーン設定が現実と乖離する可能性があります。
RPE(主観的運動強度)による新しいペーシング戦略
RPEとは
RPE(Rate of Perceived Exertion)は「自覚的運動強度」を数値化した指標で、ボルグスケール(6〜20)を用います。13〜14は「ややきつい」とされ、マラソンペースの目安になります。
RPEを活用するメリット
- 心拍数や速度に依存せず、自身の感覚で強度を判断できる
- 環境要因や疲労に応じて柔軟に調整可能
- トレーニングで感覚と生理指標をリンクさせることで精度向上
変動ペース(ペースオシレーション)の活用
近年の研究では、一定ペースではなく適度に速度を変化させる「ペースオシレーション」が有効とされています。短時間のペース変化で筋群を切り替え、疲労を分散させる効果が期待されます。
実践への応用
トレーニング段階での準備
- 心拍数、RPE、速度の三指標を併用して感覚を養う
- 閾値付近のトレーニングで心拍と体感のズレを確認
- 長時間走で後半の心拍挙動を把握する
レース本番でのペーシング
- 心拍数は目安として参考にしつつ、体感や呼吸の状態を優先
- 30km以降のペースダウンを想定し、余裕度を持たせる
- 補給と水分摂取を適切に行い、心血管ドリフトを最小化する
まとめ
マラソン中の心拍数はVO2maxを正確には反映せず、特に後半では両者の乖離が顕著になります。心拍数に頼ったペーシングは誤った判断を招く恐れがあり、RPEや速度、呼吸感覚など複合的な指標を用いることが望ましいといえます。
市民ランナーが完走率やパフォーマンスを高めるためには、トレーニング段階から心拍数と主観的強度の関係を把握し、本番では柔軟にペースを調整する力を身につけることが重要です。
参考文献
- Heart Rate Does Not Reflect the %VO2max in Recreational Runners during the Marathon

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