ナイキヴェイパーフライが注目される理由
スーパ―シューズの登場とマラソン記録の革新
2017年に登場したナイキヴェイパーフライは、マラソン界に大きな衝撃を与えました。厚底構造とカーボンファイバープレートを搭載したこのシューズは、世界記録を次々と塗り替え、トップアスリートから市民ランナーまで幅広く注目を集めています。特に、2019年のエリウド・キプチョゲによる非公式ながら2時間切りの挑戦は、このシューズの象徴的な出来事でした。
カーボンプレートとズームXフォームの組み合わせ
ヴェイパーフライの特徴は、軽量かつ高反発のズームXフォームと、フルレングスで埋め込まれたカーボンプレートの組み合わせです。多くのランナーは、このカーボンプレートが「バネのように作用して推進力を生み出す」と理解してきました。実際、メーカーのプロモーションもプレートの存在を強調しており、剛性が速さを支えると信じられてきました。
市民ランナーに広がる期待と誤解
こうした情報が広まることで、多くの市民ランナーは「カーボンプレート搭載=速く走れる」と考えるようになりました。しかし近年の研究では、この理解が必ずしも正しくないことが指摘されています。ヴェイパーフライの強みはプレート単独の効果ではなく、フォーム材、シューズ形状、剛性の相互作用にある可能性が高いのです。
縦方向曲げ剛性とは何か
曲げ剛性の基本的な定義
縦方向曲げ剛性(Longitudinal Bending Stiffness, LBS)とは、シューズが前後方向にどれくらい曲がりにくいかを示す性質です。値が大きいほど靴底は硬くなり、屈曲が制限されます。これにより足関節の動きや踏み込みの仕方に影響を及ぼすと考えられています。
シューズ設計における剛性の役割
従来の研究では、剛性が高いシューズは足の屈曲を抑制し、筋肉や腱の無駄な動きを減らすことで効率を高めるとされてきました。特に短距離やスプリント種目では、剛性が推進力の伝達を助ける可能性が報告されています。
先行研究で指摘されてきた効果
カーボンプレートを搭載したシューズは、従来モデルに比べてランニングエコノミーを改善すると示されてきました。しかし、それが「剛性そのものの効果」なのか「フォーム材との組み合わせによる効果」なのかは明確ではありませんでした。この点を解明するために行われたのが、今回の研究です。
ランニングエコノミーとは
VO2とエネルギー消費の関係
ランニングエコノミーとは、一定の速度で走行する際に必要な酸素消費量(VO2)を指します。同じ速度で走っても酸素消費が少なければ効率が良い、つまりエコノミーが高いと評価されます。
なぜランニングエコノミーが重要なのか
マラソンのような長距離種目では、酸素消費の効率性が記録に直結します。VO2maxが高いだけでなく、サブマラソンペースでの酸素消費を抑えられるかどうかが勝負を分ける要素となります。
記録向上との因果関係
研究によれば、ランニングエコノミーが1%改善するとマラソンタイムが約0.8〜1%短縮すると言われています。トップランナーはもちろん、市民ランナーにとっても記録更新に大きな意味を持つ指標です。
研究デザインと方法
被験者の特徴と条件設定
研究では、持久的にトレーニングを積んだ熟練ランナーが被験者として選ばれました。これにより、基礎体力や走行フォームの安定性による影響を最小化しています。
Vaporflyを用いた剛性操作の仕組み
被験者はNike Vaporflyをベースに、剛性を操作した3種類のシューズを着用しました。通常剛性モデル、高剛性モデル、低剛性モデルの比較により、縦方向曲げ剛性の影響を検証しました。
測定指標(VO2、心拍数、主観的疲労感)
ランニングエコノミーを示すVO2に加え、心拍数や主観的運動強度(RPE)も測定されました。これにより、剛性が生理的および心理的負荷に与える影響を総合的に評価しました。
研究の結果
剛性の違いがもたらした数値データ
実験の結果、剛性の違いによってランニングエコノミーには有意な差が認められませんでした。高剛性モデルでも低剛性モデルでも、酸素消費量はほぼ同等であり、効率が改善する兆候は見られませんでした。
ランニングエコノミーに有意差が見られなかった事実
これは「剛性が高いほどランニングが効率化する」という仮説を否定する結果です。少なくともヴェイパーフライにおいては、剛性単独では効果を発揮しないことが明らかになりました。
心拍数やRPEにおける一致した傾向
心拍数や主観的疲労感においても、剛性の差による変化は観察されませんでした。つまり、走行時の生理的ストレスや感覚的なきつさにも違いがなかったのです。
なぜ剛性が効果を示さなかったのか
フォーム材の反発性能の影響
ヴェイパーフライ最大の特徴はズームXフォームの高反発性です。これが推進効率の大部分を担っていると考えられ、剛性の差を上書きするほどの影響力を持っている可能性があります。
ロッカー構造と推進効率
靴底のロッカー形状は足の回転をスムーズにし、蹴り出しの効率を高めます。この形状的な工夫が、剛性による違いを相殺していると推測されます。
シューズ設計要素の相互作用
シューズ性能は一つの要素だけで決まるものではなく、フォーム材、形状、重量、剛性の組み合わせによって総合的に発揮されます。剛性単独の効果が小さいのは、この複合設計の結果と考えられます。
ランナーの個人差が与える影響
走法や筋力特性によって剛性の影響を受けやすいランナーとそうでないランナーが存在します。今回の研究では平均的な結果が示されましたが、個人レベルでは剛性が快適性やパフォーマンスに関与する可能性も残されています。
市民ランナーにとっての意味
剛性の数値だけにこだわる必要はない
市民ランナーがシューズを選ぶ際、「カーボンプレート搭載」や「剛性が高い」といった要素だけに注目するのは適切ではありません。むしろ、自分の走法に合うかどうか、長時間走行で快適に使えるかが重要です。
シューズ選びで重視すべきポイント
軽量性、クッション性、フィット感、安定性といった総合的な視点が必要です。特にマラソンでは疲労時のフォーム維持を助けるシューズかどうかが鍵となります。
練習や走法との相性を考慮する重要性
練習で多用するなら反発性が強すぎないシューズを、レースで最大限の効果を狙うなら高反発シューズを、といった使い分けも有効です。剛性の高さを過信するのではなく、目的と場面に合わせた選択が求められます。
シューズ開発への示唆
剛性だけでなく複合設計が鍵
今回の研究は、シューズ開発において剛性単独ではなく、フォーム材や形状との相互作用を考慮する必要性を示しています。今後の製品はより総合的なバランスを重視して設計されるべきです。
今後のシューズ研究に求められる視点
剛性が長時間走行や疲労蓄積時にどう作用するのか、個人差をどのように考慮するかが次の研究課題となるでしょう。特に市民ランナーにとっては「誰にでも効くシューズ」ではなく「自分に合うシューズ」を見つけることがより現実的な選択肢です。
まとめ
剛性が高ければ速く走れる、という単純な理解は正しくありません。ナイキヴェイパーフライに関する研究は、ランニングエコノミーに剛性が与える影響が限定的であることを明らかにしました。シューズの性能は複合的な要素の組み合わせによって発揮されるため、市民ランナーは剛性にこだわるのではなく、総合的な視点でシューズを選ぶことが求められます。
参考文献
- Longitudinal bending stiffness does not affect running economy in Nike Vaporfly Shoes

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